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NHKテレビ 「100分de名著」 【維摩経】を 放送 、好評 テキスト (とらわれない、こだわらない) (古い「自分」を解体し、新たな「自分」を構築する。)

  目次 ・維摩詰所説経巻 (巻上)第一第二第三 ・(巻中)第一第二第三 ・(巻下)第一第二
      下欄に記載 ( 面白い 超訳【維摩経】)(維摩書籍)(辞典)

維摩経(巻上之第一)  とらわれない、こだわらない
    自分の枠をばらし、新たな「私」を組み立てる。

『維摩経』は、西暦百年頃にインドで成立したと考えられています。「生老病死」と言った仏教の基本テーマだけでなく、政治や経済、平等や差別といった人間社会が抱えるさまざまな問題が、維摩詰によって提起されていきます。
『維摩経』 (ゆいまきょう、梵: Vimalakīrti-nirdeśa Sūtra ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ)は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。 サンスクリット原典と、チベット語訳、3種の漢訳が残存する。漢訳は7種あったと伝わるが、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳である。
日本でも、仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子の三経義疏の一つ『維摩経義疏』を始め、今日まで多数の注釈書が著されている。

維摩経動画(100分で名著1.2.3.4)他

 
①「維摩経 仏教思想の一大転換」 ②「維摩経 得意分野こそ疑え」、  維摩経義疏: 不可思議解脱経:聖徳太子 著 (島田蕃根) 「維摩経に〝今〟を学ぶ 」維摩経(動画)維摩経(YouTube)国立図書「維摩経」

(←クリック:詳細説明) (辞典)

概要
維摩経は初期大乗仏典で、全編戯曲的な構成の展開で旧来の仏教の固定性を批判し在家者の立場から大乗仏教の軸たる「空思想」を高揚する。
内容は中インド・ヴァイシャーリーの長者ヴィマラキールティ(維摩詰、維摩、浄名)にまつわる物語である。
維摩が病気[3]になったので、釈迦が舎利弗・目連・迦葉などの弟子達や、弥勒菩薩などの菩薩にも見舞いを命じた。しかし、みな以前に維摩にやりこめられているため、誰も理由を述べて行こうとしない。そこで、文殊菩薩が見舞いに行き、維摩と対等に問答を行い、最後に維摩は究極の境地を沈黙によって示した。

維摩経は明らかに般若経典群の流れを引いているが、大きく違う点もある。
一般に般若経典は呪術的な面が強く、経自体を受持し読誦することの功徳を説くが、維摩経ではそういう面が希薄である。
般若経典では一般に「空」思想が繰り返し説かれるが、維摩経では「空」のような観念的なものではなく現実的な人生の機微から入って道を窮めることを軸としている。

不二法門
維摩経の内容として特徴的なのは、不二法門(ふにほうもん)といわれるものである。不二法門とは互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いている。例を挙げると、生と滅、垢と浄、善と不善、罪と福、有漏(うろ)と無漏(むろ)、世間と出世間、我と無我、生死(しょうじ)と涅槃、煩悩と菩提などは、みな相反する概念であるが、それらはもともと二つに分かれたものではなく、一つのものであるという。
たとえば、生死と涅槃を分けたとしても、もし生死の本性を見れば、そこに迷いも束縛も悟りもなく、生じることもなければ滅することもない。したがってこれを不二の法門に入るという。
これは、維摩が同席していた菩薩たちにどうすれば不二法門に入る事が出来るのか説明を促し、これらを菩薩たちが一つずつ不二の法門に入る事を説明すると、文殊菩薩が「すべてのことについて、言葉もなく、説明もなく、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答を離れ超えている。これを不二法門に入るとなす」といい、我々は自分の見解を説明したので、今度は維摩の見解を説くように促したが、維摩は黙然として語らなかった。文殊はこれを見て「なるほど文字も言葉もない、これぞ真に不二法門に入る」と讃嘆した。
この場面は「維摩の一黙、雷の如し」として有名で、『碧巌録』の第84則「維摩不二」の禅の公案にまでなっている。

目次 ・維摩詰所説経巻上 第一  第二  第三 ・維摩詰所説経巻中 第一  第二  第三 ・維摩詰所説経巻下 第一  第二
維摩詰所說經巻上(第一) 維摩経(巻上之第一)

維摩詰所說經(一名不可思議解脫上卷) 姚秦三藏鳩摩羅什譯
・維摩詰所説経(ゆいまきつしょせつきょう)上巻
 (一名不可思議解脱経(いちめいふかしぎげだつきょう))
  姚秦三蔵鳩摩羅什(ようしんさんぞうくまらじゅう)訳す

佛國品第一  
・仏国品第一(ぶっこくぼんだいいち)

如是我聞。一時佛在毘耶離菴羅樹園。與大比丘眾八千人俱 ・かくの如くを我聞きき。ある時、仏、毘耶離(びやり)菴羅樹園(あんらじゅおん)に在(まし)まして、大比丘衆八千人と倶(とも)なり。

菩薩三萬二千。眾所知識。大智本行皆悉成就。諸佛威神之所建立 ・菩薩も三万二千あり。衆に知識せられ、大智の本行(六波羅蜜等)、皆ことごとく成就せり。諸仏の威神(いじん、威神力)の建立(こんりゅう、擁立)する所なり。

為護法城。受持正法。能師子吼名聞十方。眾人不請友而安之。紹隆三寶能使不絕
・法城を護らんが為に、正法を受持し、よく師子吼(ししく、説法)して、名は十方に聞こゆ。衆人(多数の人)、請(こ)わざれども、友としてこれ(衆人)を安んじ、三宝(さんぼう、仏法僧)を紹隆(しょうりゅう、受継ぎ興隆)して、よく絶えざらしむ。

降伏魔怨制諸外道。悉已清淨永離蓋纏。心常安住無礙解脫 ・魔怨(まおん、修行の妨げ、欲魔身魔死魔天魔)を降伏(ごうぶく)して、諸の外道(げどう、仏教以外)を制し、ことごとくすでに清浄(しょうじょう、身口意に悪業を作らず)にして、永く(永遠に)、蓋纏(がいてん、修行の妨げ)を離れ、心常に無礙(むげ、自由自在)解脱(げだつ、束縛から離れ自由となる)に安住す。

念定總持辯才不斷。布施持戒忍辱精進禪定智慧。及方便力無不具足 ・念(ねん、正念)、定(じょう、禅定)、総持(そうじ、不忘失)、辯才(べんざい、弁舌の才能)ありて断ぜず。布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智慧および方便力(ほうべんりき、衆生を教化する手段)の具足(ぐそく)せざるなく、

逮無所得不起法忍
・無所得(むしょとく、空を体得)、不起法忍(ふきほうにん、空を体得して不退)に逮(およ)ぶ。

已能隨順轉不退輪。善解法相知眾生根。蓋諸大眾得無所畏
・すでによく(仏法に)随順(ずいじゅん)して、不退(ふたい、不退転)の輪(りん、法)を転(てん、説法)ず。よく法相(ほうそう、物事の真相)を解(げ、理解)して、衆生(しゅじょう)の根(こん、本性)を知り、諸の大衆(だいしゅ)を蓋(おお)いて、無所畏(むしょい、説法の自在)を得たり。

功德智慧以修其心。相好嚴身色像第一。捨諸世間所有飾好。名稱高遠踰於須彌
・功徳(くどく、衆生に利益を与える力)と智慧、以ってその心を修め、相好(そうごう、仏の容貌)身を厳(かざ)りて、色像(しきぞう、姿形)第一なり。諸の世間の有らゆる飾好(じきこう、装身具)を捨て、名称(みょうしょう)高遠(こうおん)にして須弥(しゅみ、須弥山)に踰(こ)ゆ。

深信堅固猶若金剛。法寶普照而雨甘露。於眾言音微妙第一
・深信(じんしん、深く仏法を信ず)堅固にして、なお金剛のごとし。法宝、普(あまね)く照らせば、甘露を雨ふらす。衆(もろもろ)の言音(ごんのん)において微妙第一なり。

深入緣起斷諸邪見。有無二邊無復餘習
・深く縁起に入りて諸の邪見を断じ、有無の二辺(我と無我のいづれかに固執すること)は、また余習(よしゅう、ブリカエス)することなし。

演法無畏猶師子吼。其所講說乃如雷震
・法を演(の)べて、畏(おそ)れ無きこと、なお師子吼(ししく)のごとく、その講説する所は、すなわち雷の震(ふる)うがごとし。

無有量已過量。集眾法寶如海導師。了達諸法深妙之義。善知眾生往來所趣及心所行
・量あること無くして、すでに量を過ぎたり。衆(あまた)の法宝を集めること、海の導師(行路を決める船長)のごとし。諸法の深妙の義に了達して、よく衆生の往来して趣く所(地獄餓鬼畜生人間天上)、および心の行ずる所(の善悪)を知る。

近無等等佛自在慧十力無畏十八不共。關閉一切諸惡趣門。而生五道以現其身
・無等等(むとうとう、比類無き)の仏の自在の慧、十力(じゅうりき、仏、菩薩の智慧)、無畏(むい、仏、菩薩のもつ自信)、十八不共(じゅうはちふぐう、仏、菩薩のみがもつ功徳)に近づき、一切の諸の悪趣(あくしゅ、地獄餓鬼畜生)の門を関閉(かんぺい、トザス)して、しかも五道(天上人間畜生餓鬼地獄)に生じ、以ってその身を現す。

為大醫王善療眾病。應病與藥令得服行。無量功德皆成就
・大医王となりて、よく衆病を療(いや)し、病に応じて薬を与え、服することを得しめ、無量の功徳を行じて、皆成就す。

無量佛土皆嚴淨。其見聞者無不蒙益。諸有所作亦不唐捐。如是一切功德皆悉具足
・無量の仏土(ぶつど、理想の国土)、皆厳浄(ごんじょう、浄く飾る)し、その(仏土を)見聞(けんもん)する者、益(やく)を蒙(こうむ)らざるは無く、諸の有らゆる所作もまた唐(むな)しく捐(すて)ず。かくの如き、一切の功徳は皆ことごとく具足せり。

其名曰等觀菩薩。不等觀菩薩。等不等觀菩薩。定自在王菩薩。法自在王菩薩。法相菩薩。光相菩薩。光嚴菩薩。大嚴菩薩。寶積菩薩。辯積菩薩。寶手菩薩。寶印手菩薩。常舉手菩薩。常下手菩薩。常慘菩薩。喜根菩薩。喜王菩薩。辯音菩薩。虛空藏菩薩。執寶炬菩薩。寶勇菩薩。寶見菩薩。帝網菩薩。明網菩薩。無緣觀菩薩。慧積菩薩。寶勝菩薩。天王菩薩。壞魔菩薩。電德菩薩。自在王菩薩。功德相嚴菩薩。師子吼菩薩。雷音菩薩。山相擊音菩薩。香象菩薩。白香象菩薩。常精進菩薩。不休息菩薩。妙生菩薩。華嚴菩薩。觀世音菩薩。得大勢菩薩。梵網菩薩。寶杖菩薩。無勝菩薩。嚴土菩薩。金髻菩薩。珠髻菩薩。彌勒菩薩。文殊師利法王子菩薩。如是等三萬二千人
・その名は、等観菩薩(とうかんぼさつ)、不等観菩薩、等不等観菩薩、定自在王菩薩(じょうじざいおうぼさつ)、法自在王菩薩、法相菩薩、光相菩薩、光厳菩薩(こうごんぼさつ)、大厳菩薩、宝積菩薩(ほうしゃくぼさつ)、辯積菩薩、宝手菩薩、宝印手菩薩、常挙手菩薩(じょうこしゅぼさつ)、常下手菩薩、常惨菩薩、喜根菩薩、喜王菩薩、辯音菩薩、虚空蔵菩薩、執宝炬菩薩(しゅうほうこぼさつ)、宝勇菩薩、宝見菩薩、帝網菩薩(たいもうぼさつ)、明網菩薩(みょうもうぼさつ)、無縁観菩薩、慧積菩薩、宝勝菩薩、天王菩薩、壊魔菩薩(えまぼさつ)、電徳菩薩、自在王菩薩、功徳相厳菩薩、師子吼菩薩、雷音菩薩、山相撃音菩薩(せんそうぎゃくおんぼさつ)、香象菩薩、白香象菩薩(びゃくこうぞうぼさつ)、常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)、不休息菩薩(ふくそくぼさつ)、妙生菩薩(みょうしょうぼさつ)、華厳菩薩(けごんぼさつ)、観世音菩薩、得大勢菩薩(とくだいせいぼさつ)、梵網菩薩(ぼんもうぼさつ)、宝杖菩薩(ほうじょうぼさつ)、無勝菩薩、厳土菩薩(ごんどぼさつ)、金髻菩薩(こんけいぼさつ)、珠髻菩薩(しゅけいぼさつ)、弥勒菩薩(みろくぼさつ)、文殊師利法王子菩薩(もんじゅしりほうおうじぼさつ)という。かくの如き等の三万二千人なり。

復有萬梵天王尸棄等。從餘四天下來詣佛所而聽法。復有萬二千天帝。亦從餘四天下來在會坐。并餘大威力諸天.龍神.夜叉.乾闥婆.阿脩羅.迦樓羅.緊那羅.摩[目*侯]羅伽.等悉來會坐
・また万の梵天王尸棄(ぼんてんおうしき)等あり。余の四天下(してんげ)より来たりて仏所に詣で、法を聴けり。また万二千の天帝あり、また余の四天下より来たりて会坐(えざ)にあり。ならびに余の大威力(いりき)の諸天、龍神、夜叉(やしゃ)、乾闥婆(けんだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、摩[目*侯]羅伽(まごらか)等もことごとく会坐に来たり。

諸比丘比丘尼優婆塞優婆夷俱來會坐
・諸の比丘(びく、出家の男弟子)、比丘尼(びくに、出家の女弟子)、優婆塞(うばそく、在俗の男信者)、優婆夷(うばい、在俗の女信者)もともに会坐に来たり。

彼時佛與無量百千之眾恭敬圍繞而為說法。譬如須彌山王顯于大海。安處眾寶師子之座。蔽於一切諸來大眾
・かの時、仏、無量百千の衆に恭敬(くぎょう)囲繞(いにょう、囲まれる)されて、為に法を説きたもう。譬えば須弥山王、大海に顕(あら)わるるが如く、衆宝の師子の座に安処(あんしょ、ドッシリと坐る)して、一切の諸來(しょらい、諸方から来る)の大衆(だいしゅ)を蔽(おお)いたもう。

爾時毘耶離城有長者子。名曰寶積。與五百長者子俱。持七寶蓋來詣佛所
・その時、毘耶離城に長者子(ちょうじゃし、財産家の子息)あり、名を宝積(ほうしゃく)という。五百の長者子とともに、七宝の蓋(かさ、貴人に差し掛ける絹のかさ)を持して仏所に来詣(らいけい)す。

頭面禮足。各以其蓋共供養佛。佛之威神令諸寶蓋合成一蓋。遍覆三千大千世界。而此世界廣長之相悉於中現
・頭面(づめん)に足を礼(らい)し、おのおのその蓋を以って共に仏に供養す。
仏の威神、諸の宝蓋(ほうがい)を合(がっ)して一の蓋に成し、あまねく三千大千世界(全世界)を覆い、しかもこの世界の広長の相は、ことごとく中に於いて現ぜり。

又此三千大千世界。諸須彌山雪山。目真鄰陀山摩訶目真鄰陀山。香山寶山金山黑山。鐵圍山大鐵圍山。大海江河川流泉源。及日月星辰。天宮龍宮。諸尊神宮。悉現於寶蓋中
・また、この三千大千世界の諸の須弥山(しゅみせん)、雪山(せっせん)、目真鄰陀山(もくしんりんだせん)、摩訶目真鄰陀山(まかもくしんりんだせん)、香山(こうせん)、宝山(ほうせん)、金山(こんせん)、黒山(こくせん)、鉄囲山(てついせん)、大鉄囲山(だいてついせん)、大海、江河、川流(せんる)、泉源、および日月星辰(にちがつしょうしん)、天宮(てんぐう)、龍宮、諸尊の神宮、悉く宝蓋中に現ぜり。

又十方諸佛諸佛說法亦現於寶蓋中
・また、十方の諸仏と、諸仏の説法も、また宝蓋中に現ぜり。

長者子宝積、偈を以って仏を讃嘆す

爾時一切大眾。睹佛神力歎未曾有。合掌禮佛瞻仰尊顏目不暫捨。於是長者子寶積。即於佛前以偈頌曰
 目淨脩廣如青蓮 
 心淨已度諸禪定 
 久積淨業稱無量 
 導眾以寂故稽首 
 既見大聖以神變 
 普現十方無量土 
 其中諸佛演說法 
 於是一切悉見聞 
 法王法力超群生 
 常以法財施一切 
 能善分別諸法相 
 於第一義而不動 
 已於諸法得自在 
 是故稽首此法王 
 說法不有亦不無 
 以因緣故諸法生 
 無我無造無受者 
 善惡之業亦不亡 
 始在佛樹力降魔 
 得甘露滅覺道成 
 已無心意無受行 
 而悉摧伏諸外道 
 三轉法輪於大千 
 其輪本來常清淨 
 天人得道此為證 
 三寶於是現世間 
 以斯妙法濟群生 
 一受不退常寂然 
 度老病死大醫王 
 當禮法海德無邊 
 毀譽不動如須彌 
 於善不善等以慈 
 心行平等如虛空 
 孰聞人寶不敬承 
 今奉世尊此微蓋 
 於中現我三千界 
 諸天龍神所居宮 
 乾闥婆等及夜叉 
 悉見世間諸所有 
 十力哀現是化變 
 眾睹希有皆歎佛 
 今我稽首三界尊 
 大聖法王眾所歸 
 淨心觀佛靡不欣 
 各見世尊在其前 
 斯則神力不共法 
 佛以一音演說法 
 眾生隨類各得解 
 皆謂世尊同其語 
 斯則神力不共法 
 佛以一音演說法 
 眾生各各隨所解 
 普得受行獲其利 
 斯則神力不共法 
 佛以一音演說法 
 或有恐畏或歡喜 
 或生厭離或斷疑 
 斯則神力不共法 
 稽首十力大精進 
 稽首已得無所畏 
 稽首住於不共法 
 稽首一切大導師 
 稽首能斷眾結縛 
 稽首已到於彼岸 
 稽首能度諸世間 
 稽首永離生死道 
 悉知眾生來去相 
 善於諸法得解脫 
 不著世間如蓮華 
 常善入於空寂行 
 達諸法相無罣礙 
 稽首如空無所依

・その時、一切の大衆、仏の神力を睹(み)て、未曾有(みぞう)なりと歎じ、合掌して仏を礼(らい)し、尊顔(そんげん)を瞻仰(せんぎょう、仰ぎ見る)して、目、暫くも捨てず。

ここに於いて、長者子宝積、すなわち仏前に於いて偈(げ、歌)を以って頌(じゅ、歌う)して曰く、

『仏の目、浄く修広(しゅうこう、長く広し)なること青蓮(しょうれん)の如く、

 心浄く、すでに諸の禅定を度(ど、渡る)し、

 久しく浄業(じょうごう、人の為になる善き行ない)を積みて、無量と称し、

 衆を導くに寂(じゃく、涅槃)を以ってす、故に稽首(けいしゅ、頭を垂れてする礼)したてまつる。

 すでに、大聖(だいしょう、仏)が神変(じんぺん、不思議の力)を以って、

 あまねく十方の無量の土(ど、仏土)を現わしたもうを見れば、

 その中に、諸仏、法を演説したまい、

 ここに於いて一切、悉くを見聞(けんもん)す。

 法王(ほうおう、仏)の法力は群生(ぐんしょう、衆生)を超え、

 常に法と財とを以って、一切に施し、

 よくよく諸法(しょほう、万物)の相(そう、ミカケ)を分別(ふんべつ)したまえども、

 第一義(真実、空平等)に於いて、しかも不動(ふどう、第一義を離れず)なり。

 すでに諸法に於いて、自在を得たもう。

 この故に、この法王に稽首したてまつる。

 『法は有るにあらず、また無きにもあらず、

 因縁を以っての故に、諸法生ず、

 我なく、造(ぞう、造作)なく、受くる者も無けれども、

 善悪の業も、また亡びず』と説きたもう。

 始め仏樹(ぶつじゅ、菩提樹)に在(ましま)して、魔を降すに力あり、

 甘露の滅(めつ、寂滅)を得て、覚道(かくどう)を成(じょう)じたまえり。

 すでに心意(しんい、ココロ)なく、受行(じゅぎょう、心の働き)なけれども、

 しかも、悉く諸の外道(げどう、仏道以外)を摧伏(さいぶく、打ち砕く)す。

 三たび法輪(ほうりん、説法)を、大千(だいせん、世界)に於いて転じ、

 その輪(りん、説法)、本来常に清浄(しょうじょう、平等にして悪業なし)なり。

 天人も道を得る、これを証(しょう、証拠)となして、

 三宝(さんぽう、仏法僧)は、ここに於いて世間に現る。

 この妙法を以って、群生(ぐんしょう、衆生)を救う、

 一たび受くれば退かず、常に寂然(じゃくねん、静かなサマ)たり。

 老病死を度(ど、救う)す大医王なり。

 まさに法海(ほうかい)の徳の無辺なるを礼(らい)すべし。

 毀誉(きよ、貶すと誉める)にも動かざること須弥(しゅみ、須弥山)の如く、

 善と不善に於いて、等しく慈(じ)を以ってし、

 心行(しんぎょう、心の働き)の平等なること、虚空の如し、

 たれか、人の宝を聞きて敬い承けたまわざる。

 今、世尊にこの微蓋(びがい、小さき蓋)を奉(たてま)つれるに、

 中に於いて、我に三千界を現したまえば、

 諸天、龍神の居ます所の宮、

 乾闥婆(けんだつば、歌神)等、および夜叉(やしゃ、鬼神)、

 悉く世間の諸の所有(しょう、アラユルモノ)を見る。

 十力(じゅうりき、仏の力)、哀れんで、この化変(けへん、変化)を現したまい、

 衆(しゅ、衆生)は希有(けう)を睹(み)て、皆仏を歎ず。

 今、我、三界(さんがい、六道世界)の尊(そん)を稽首したてまつる。

 大聖(だいしょう、仏)、法王(ほうおう、仏)は衆の帰(き、帰依)する所、

 心を浄くし、仏を観て、欣(よろ)こばざるはなく、

 おのおの、世尊に見(まみ)えて、その前に在るは、

 これすなわち神力(じんりき、神通力)不共法(ふぐうほう、仏のみ持つ力)なり。

 仏、一音を以って、法を演説したもうに、

 衆生は、類に随うて、おのおの解することを得、

 皆、世尊は、その語(ご、言語)を同じくしたもうと謂(おも)う。

 これすなわち、神力不共法なり。

 仏、一音を以って、法を演説したもうに、

 衆生は、おのおの解する所に随うて、

 あまねく、受行(じゅぎょう、信受奉行)を得て、その利(り、利益)を獲(う)。

 これすなわち、神力不共法なり。

 仏、一音を以って、法を演説したもうに、

 あるいは恐畏(くい)あり、あるいは歓喜し、

 あるいは厭離(えんり、俗を厭う)し、あるいは疑いを断ず。

 これすなわち、神力不共法なり。

 十力の大精進(だいしょうじん、暫くも休まざること)を稽首したてまつる。

 すでに無所畏(むしょい、畏れず説法する)を得たまえるを稽首したてまつる。

 不共法(ふぐうほう、仏のみが持つ力)に住したまえるを稽首したてまつる。

 一切のための大導師たるに稽首したてまつる。

 よく、衆(もろもろ)の結縛(けつばく、煩悩)を断じたまえるに稽首したてまつる。

 すでに、彼岸に到りたまえるに稽首したてまつる。

 よく、諸の世間を度したまえるに稽首したてまつる。

 ながく生死の道を離れたまえるに稽首したてまつる。

 悉く衆生の来去(らいこ、六道を旅する)の相(そう、スガタ)を知りたまい、

 よく諸法(しょほう、アラユルモノ)に於いて解脱(げだつ、執著なし)したまい、

 世間に著(じゃく)せざること蓮華の如く、

 常によく、空寂の行(執著しない心の働き)に入りたまい、

 諸法の相に達して(アラユル物事ヲヨク知リ)罣礙(けげ、障害)なく、

 空(くう、大空)の如く所依(しょえ、他に拠り所のあること)無きに、

 稽首したてまつる。』と。

諸の菩薩の浄土の行を明かす

爾時長者子寶積。說此偈已白佛言。世尊。是五百長者子。皆已發阿耨多羅三藐三菩提心。願聞得佛國土清淨。唯願世尊。說諸菩薩淨土之行
・その時、長者子宝積(ほうしゃく)は、この偈を説きおわりて、仏に白(もう)して言(もう)さく、『世尊、この五百の長者子は、皆すでに阿耨多羅三藐三菩提心(あのくたらさんみゃくさんぼだいしん、仏になり衆生を済度したいという願い)を発(おこ)せり。願わくは、仏国土の清浄なるを得ることを聞かん。ただ、願わくは、世尊、諸の菩薩の浄土の行を説きたまえ。』と。

佛言。善哉寶積。乃能為諸菩薩問於如來淨土之行。諦聽諦聽善思念之。當為汝說
・仏、言(の)たまわく、『善きかな宝積、すなわち、よく諸の菩薩の為に、如来に於いて、浄土の行を問えり。諦(あきら)かに聴け諦かに聴け。善くこれを思念せよ。まさに汝が為に説かん。』と。

於是寶積及五百長者子。受教而聽
・ここに於いて、宝積および五百の長者子、教えを受けて聴く。

佛言。寶積。眾生之類是菩薩佛土。所以者何。菩薩隨所化眾生而取佛土。隨所調伏眾生而取佛土。隨諸眾生應以何國入佛智慧而取佛土。隨諸眾生應以何國起菩薩根而取佛土
・仏、言たまわく、『宝積、衆生の類は、これ菩薩の浄土なり。所以(ゆえ)は何(いか)に。菩薩は化(け、化導、導く)する所の衆生に随って、仏土を取る。調伏(ちょうぶく、調御征服、教える)する所の衆生に随って、仏土を取る。諸の衆生の、まさに何の国を以って、仏の智慧に入るべきかに随って、仏土を取る。諸の衆生の、まさに何の国を以って、菩薩の根を起こすべきかに随って、仏土を取る。

所以者何。菩薩取於淨國。皆為饒益諸眾生故< br> ・所以は何に。菩薩の浄国を取るは、皆諸の衆生を饒益(にょうやく、利益を与う、仏と成らせる)せんが為の故なり。 譬如有人欲於空地造立宮室隨意無礙。若於虛空終不能成 ・譬えば、ある人、空き地に宮室を造立(ぞうりゅう)せんと欲するに、意に随って無礙(むげ、自由自在)なれども、もし虚空に於いてせば、ついに成ること

能(あた、可能)わざるが如し。 菩薩如是。為成就眾生故願取佛國。願取佛國者非於空也
・菩薩は、かくの如く、衆生を成就(じょうじゅ、成仏)せんが為の故に、願いて仏国を取る。願いて仏国を取るとは、空に於いてするには非ざるなり。

寶積。當知直心是菩薩淨土。菩薩成佛時不諂眾生來生其國
・宝積、まさに知るべし、直心(じきしん、真っ直ぐな心)は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、諂(へつら)わざる衆生、その国に来生す。

深心是菩薩淨土。菩薩成佛時具足功德眾生來生其國
・深心(じんしん、深く仏法を信ずる)は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、功徳を具足するの衆生、その国に来生す。

菩提心是菩薩淨土。菩薩成佛時大乘眾生來生其國
・菩提心(ぼだいしん、衆生を済度する願い)は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、大乗の衆生、その国に来生す。

布施是菩薩淨土。菩薩成佛時一切能捨眾生來生其國
・布施は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、一切をよく捨つる衆生、その国に来生す。

持戒是菩薩淨土。菩薩成佛時行十善道滿願眾生來生其國
・持戒は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、十善道(じゅうぜんどう、不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見)を行ずる、満願の衆生、その国に来生す。

忍辱是菩薩淨土。菩薩成佛時三十二相莊嚴眾生來生其國
・忍辱は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、三十二相をもって荘厳せる衆生、その国に来生す。

精進是菩薩淨土。菩薩成佛時勤修一切功德眾生來生其國
・精進は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、一切の功徳を勤修する衆生、その国に来生す。

禪定是菩薩淨土。菩薩成佛時攝心不亂眾生來生其國
・禅定は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、心を摂(おさ)めて乱れざる衆生、その国に来生す。

・智慧是菩薩淨土。菩薩成佛時正定眾生來生其國
智慧は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、正定(正定聚、必定して証悟する)の衆生、その国に来生す。

四無量心是菩薩淨土。菩薩成佛時成就慈悲喜捨眾生來生其國
・四無量心(しむりょうしん、慈悲喜捨の四が無量)は、菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、慈悲喜捨を成就する衆生、その国に来生す。

四攝法是菩薩淨土。菩薩成佛時解脫所攝眾生來生其國
・四摂法(ししょうほう、布施愛語利益同事によって衆生を摂取する)は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、解脱に摂せらるる衆生、その国に来生す。

方便是菩薩淨土。菩薩成佛時於一切法方便無礙眾生來生其國
・方便(ほうべん、衆生を摂取する手段)は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、一切の法に於いて、方便の無礙なる衆生、その国に来生す。

三十七道品是菩薩淨土。菩薩成佛時念處正勤神足根力覺道眾生來生其國
・三十七道品(さんじゅうしちどうほん、菩薩の修行すべき項目)は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、念処、正勤、神足、根、力、覚、道の衆生、その国に来生す。

迴向心是菩薩淨土。菩薩成佛時得一切具足功德國土
・廻向心(えこうしん、自ら積んだ一切の善業を理想の国土建設に振り向ける心)は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、一切の功徳を具足する国土を得。

說除八難是菩薩淨土。菩薩成佛時國土無有三惡八難
・八難(はちなん、仏法を聴き難い八ヶ処)を除くことを説く、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、国土に三悪と八難あること無し。

自守戒行不譏彼闕是菩薩淨土。菩薩成佛時國土無有犯禁之名
・自ら戒行を守り、彼れの闕(けつ、過失、破戒)を譏(そし)らざる、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、国土に禁を犯すの名あること無し。

十善是菩薩淨土。菩薩成佛時命不中夭。大富梵行所言誠諦。常以軟語眷屬不離。善和諍訟言必饒益。不嫉不恚正見眾生來生其國
・十善は、これ菩薩の浄土なり。菩薩、成仏の時、命中夭(ちゅうよう)せず、大いに富み、梵(きよ)き行い、言う所は誠にして諦(あきら)かに、常に軟語(なんご、ヤサシキ言葉)を以(もち)い、眷属離れず、よく諍頌(じょうしょう、イサカイ)を和し、言えば必ず饒益(にょうやく、利益を与う)し、嫉まず、恚(いか)らず、正見の衆生、その国に来生す。

如是寶積。菩薩隨其直心則能發行
・かくの如く、宝積、菩薩は、その直心に随って、すなわち、よく発行(ほつぎょう、行動)す。

隨其發行則得深心
・その発行に随って、すなわち深心を得。

隨其深心。則意調伏
・その深心に随って、すなわち意(こころ)調伏す。

隨意調伏。則如說行
・その意の調伏するに随って、すなわち説の如く行ず。

隨如說行則能迴向
・説の如くに行ずるに随って、すなわち、よく廻向す。

隨其迴向則有方便
・その廻向に随って、すなわち方便あり。

隨其方便則成就眾生
・その方便に随って、すなわち衆生を成就す。

隨成就眾生則佛土淨
・衆生を成就するに随って、すなわち仏土浄(きよ)し。

隨佛土淨則說法淨
・仏土の浄きに随って、すなわち法を説くこと浄し。

隨說法淨則智慧淨
・法を説くこと浄きに随って、すなわち智慧浄し。

隨智慧淨則其心淨
・智慧浄きに随って、すなわち、その心浄し。

隨其心淨則一切功德淨
・その心の浄きに随って、すなわち一切の功徳浄し。

是故寶積。若菩薩欲得淨土當淨其心。隨其心淨則佛土淨
・この故に、宝積、もし菩薩、浄土を得んと欲せば、まさにその心を浄むべし。その心の浄きに随って、すなわち浄土浄し。』と。

この土の清浄を明かす

爾時舍利弗。承佛威神作是念。若菩薩心淨則佛土淨者。我世尊本為菩薩時意豈不淨。而是佛土不淨若此
・その時、舍利弗、仏の威神(いじん、力)を承けて、この念(おもい)を作(な)さく、『もし菩薩が心浄ければ、すなわち仏土浄しとならば、我が世尊、もと菩薩たりし時、意(こころ)、豈(あに)不浄ならんや、しかもこの仏土の不浄なること、かくの如き。』と。

佛知其念即告之言。於意云何。日月豈不淨耶。而盲者不見
・仏、その念(おもい)を知り、すなわち、これに告げて言(の)たまわく、『意に於いて云何(いかん)。日月は豈(あに)不浄ならんや、しかも盲者は見ずとは。』

對曰不也。世尊。是盲者過非日月咎
・対(こた)えて曰く、『不なり。世尊、これ盲者の過(とが)にして、日月の咎(とが)には非ず』と。

舍利弗。眾生罪故不見如來佛土嚴淨。非如來咎
・『舍利弗、衆生の罪の故に、如来の仏土の荘厳なるを見ず。如来の咎には非ず。

舍利弗。我此土淨而汝不見
・舍利弗、我がこの土(ど)は浄けれど、汝は見ず』と。

爾時螺髻梵王語舍利弗。勿作是意。謂此佛土以為不淨。所以者何。我見釋迦牟尼佛土清淨。譬如自在天宮
・その時、螺髻梵王(らけいぼんおう)、舍利弗に語らく、『この意を作すことなかれ。謂わく、この仏土は、以って不浄と為すと。所以(ゆえ)は何に。我、釈迦牟尼仏の土を見るに、清浄なること、譬えば、自在天宮(じざいてんぐう)の如し』と。

舍利弗言。我見此土。丘陵坑坎荊蕀沙礫。土石諸山穢惡充滿
・舍利弗言わく、『我、この土を見るに、丘陵(きゅうりょう)、坑坎(こうかん)、荊棘(けいきょく)、沙礫(しゃれき)、土石、諸山、穢悪(えあく)充満せり』と。

螺髻梵言。仁者心有高下。不依佛慧故。見此土為不淨耳
・螺髻梵言わく、『仁者(なんじ)が心に、高下あり。仏慧に依らざるが故に、この土を見て、不浄と為すのみ。

舍利弗。菩薩於一切眾生。悉皆平等。深心清淨。依佛智慧則能見此佛土清淨
・舍利弗、菩薩は一切の衆生に於いて、悉く皆平等なり。深心清浄にして、仏慧に依れば、すなわち、よくこの土の清浄なるを見る』と。

於是佛以足指按地。即時三千大千世界若干百千珍寶嚴飾。譬如寶莊嚴佛無量功德寶莊嚴土
・ここに於いて、仏、足の指を以って、地を按(お)したまえば、即時に三千大千世界は、若干(そこばく)百千の珍宝厳飾(ごんじき)すること、譬えば、宝荘厳仏(ほうしょうごんぶつ、仏名)の無量功徳宝荘厳土(むりょうくどくほうしょうごんど、仏土名)の如し。

一切大眾歎未曾有。而皆自見坐寶蓮華
・一切の大衆、未曾有(みぞう)を歎じ、しかも皆自ら宝蓮華(の座に)に坐するを見る。

佛告舍利弗。汝且觀是佛土嚴淨
・仏、舍利弗に告げたまわく、『汝、且(しばら)く、この仏土の厳浄(ごんじょう)なるを観よ。』

舍利弗言。唯然世尊。本所不見。本所不聞。今佛國土嚴淨悉現
・舍利弗言わく、『唯(ゆい、ハイと返事)、然り世尊、もと見ざる所、もと聞かざる所なり。今、仏国土の厳浄なること、悉く現る。』

佛語舍利弗。我佛國土常淨若此。為欲度斯下劣人故。示是眾惡不淨土耳
・仏、舍利弗に語りたまわく、『我が仏国土、常に浄きこと是の如し。この下劣人を度せんと欲するが故に、この衆悪、不浄の土を示すのみ。

譬如諸天共寶器食隨其福德飯色有異
・譬えば、諸天の如きは、宝器を共にして食すれども、その福徳に随って、飯色に異なりあり。

如是舍利弗。若人心淨便見此土功德莊嚴
・かくの如く舍利弗、もし人の心浄くば、すなわち、この土の功徳荘厳を見ん。』

當佛現此國土嚴淨之時。寶積所將五百長者子皆得無生法忍。八萬四千人皆發阿耨多羅三藐三菩提心
・仏、この国土の厳浄なるを現したもうの時に当たりて、宝積の将(ひきい)る所の五百の長者子、皆無生法忍(むしょうほうにん、仏道に不退転)を得、八万四千人は皆阿耨多羅三藐三菩提心(仏道に向かう心)を発せり。

佛攝神足。於是世界還復如故
・仏、神足を摂(おさ)めたもう。ここに於いて世界は、また故(もと)の如く復す。

求聲聞乘三萬二千天及人。知有為法皆悉無常。遠塵離垢得法眼淨
・声聞乗を求むる三万二千の天および人、『有為法(ういほう、世間の物事)は皆悉く無常なり』と知り、塵(じん、見聞きする所)を遠ざけ、垢(く、心の垢、煩悩)を離れ、法眼浄(ほうげんじょう、真実を見極める濁らない眼)を得(う)。

八千比丘不受諸法漏盡意解
・八千の比丘、諸法を受けずして、漏(ろ、煩悩)尽き、意(い、心)解(げ、理解)す。

方便品第二

方便品第二
・方便品第二(ほうべんぼんだいに)

維摩詰(ゆいまきつ)

爾時毘耶離大城中有長者名維摩詰。已曾供養無量諸佛深植善本。得無生忍。辯才無礙。遊戲神通逮諸總持。獲無所畏降魔勞怨。入深法門善於智度。通達方便大願成就。明了眾生心之所趣。又能分別諸根利鈍。久於佛道心已純淑決定大乘。諸有所作能善思量。住佛威儀心大如海。諸佛咨嗟弟子。釋梵世主所敬
・」その時、毘耶離大城(びやりだいじょう)の中に長者あり、維摩詰(ゆいまきつ)と名づく。
すでに、かつて無量の諸仏を供養し、深く善本(ぜんぽん、善業)を植え、無生忍(むしょうにん、無我)を得、辯才(べんざい、弁説の才能)無礙(むげ、自在)にして、神通に遊戯(ゆげ、自在)し、諸の総持(そうじ、不忘失)に逮(およ、獲得)び、無所畏(むしょい、説法自在)を獲(え)、魔の労怨(ろうおん)を降し、深法(じんぽう)の門に入り、智度(ちど、般若波羅蜜)を善くし、方便(ほうべん、衆生を救う手段)に通達(つうだつ)し、大願成就し、衆生の心の趣く所を明了にし、また、よく諸根の利鈍を分別し、久しく仏道に於いて、心すでに純熟(じゅんじゅく、成就)し、大乗を決定し、諸の有らゆる所作、よくよく思量し、仏の威儀(いぎ、行住坐臥)に住して、心の大なること海の如く、諸仏は咨嗟(しさ、感嘆)し、弟子、釈、梵、世主の敬う所なり。

欲度人故以善方便居毘耶離
・人を度せんと欲するが故に、善方便を以って、毘耶離に居り、

資財無量攝諸貧民
・資財、無量にして、諸の貧民を摂(せつ、摂受、救い取る)し、

奉戒清淨攝諸毀禁
・戒を奉じ清浄にして、諸の毀禁(ききん、犯戒の者)を摂し、

以忍調行攝諸恚怒
・忍調(にんちょう、忍耐)の行を以って、諸の恚怒(いぬ、怒りを持つ者)を摂し、

以大精進攝諸懈怠
・大精進を以って、諸の懈怠(けたい、怠け者)を摂し、

一心禪寂攝諸亂意
・一心禅寂(ぜんじゃく、寂静)にして、諸の乱意(の者)を摂し、

以決定慧攝諸無智
・決定の慧を以って、諸の無智(の者)を摂し、

雖為白衣奉持沙門清淨律行
・白衣(びゃくえ、俗人)たりといえども、沙門(しゃもん、出家)の清浄の律行(りつぎょう、戒律による修行)を奉持(ぶじ、支う)し、

雖處居家不著三界
・居家(こけ、在家)に処するといえども、三界に著(じゃく、執著)せず、

雖處居家不著三界
・居家(こけ、在家)に処するといえども、三界に著(じゃく、執著)せず

示有妻子常修梵行
・妻子あることを示せども、常に梵行(ぼんぎょう、清浄無欲の行)を修め、

現有眷屬常樂遠離
・眷属(けんぞく、家族)あることを現わせども、常に遠離(おんり、一切の繫縛を離る)を楽(ねが)い、

雖服寶飾而以相好嚴身
・宝飾(ほうじき)を服すといえども、相好(そうごう、仏の容貌)を以って、身を厳(かざ)り、

雖復飲食而以禪悅為味
・また飲食すといえども、禅悦を以って味(あじわい)と為し、

若至博弈戲處輒以度人
・もしくは博奕(ばくえき、賭博)の戯処(けじょ)に至りても、すなわち以って人を度し、

受諸異道不毀正信
・諸の異道を受くれども、正信を毀(やぶ)らず、

雖明世典常樂佛法
・世典(せてん、世俗の典籍)に明らかなりといえども、常に仏法を楽しみ、

一切見敬為供養中最
・一切(の人)に敬われて、供養せらるる中の最たり。

執持正法攝諸長幼
・正法を執持(しゅうじ)して、諸の長幼を摂し、 一切治生諧偶雖獲俗利不以喜悅 ・一切の治生(じしょう、生業)諧偶(かいぐう、順調)して、俗利を獲(う)といえども、喜悦を以ってせず。

遊諸四衢饒益眾生
・諸の四衢(しく、繁華街)に遊べども、衆生を饒益(にょうやく、利益を与う)し、

入治政法救護一切
・治政(じしょう)の法に入りて、一切を救護(くご)し、

入講論處導以大乘
・講論の処に入りては、導くに大乗を以ってし、

入諸學堂誘開童蒙
・諸の学堂に入りては、誘いて童の蒙(もう、無智)を開き、

入諸婬舍示欲之過
・諸の婬舎(いんしゃ、娼家)に入りては、欲(欲情)の過(とが)を示し、

入諸酒肆能立其志
・諸の酒肆(しゅし、酒場)に入りては、よくその志を立つ。

若在長者長者中尊為說勝法
・もし長者(ちょうじゃ、財産家)に在りては、長者中の尊(そん、尊敬せらるる者)として、為に勝法を説き、

若在居士居士中尊斷其貪著
・もし居士(こじ、在俗の信者)に在りては、居士中の尊として、その貪著(とんじゃく、貪愛執著)を断ち、

若在居士居士中尊斷其貪著
・もし居士(こじ、在俗の信者)に在りては、居士中の尊として、その貪著(とんじゃく、貪愛執著)を断ち、

若在剎利剎利中尊教以忍辱
・もし刹利(せつり、王族)に在りては、刹利中の尊として、教うるに忍辱(にんにく、忍耐)を以ってし、

若在婆羅門婆羅門中尊除其我慢
・もし婆羅門(ばらもん、学問呪術族)に在りては、婆羅門中の尊として、その我慢(がまん、高慢)を除き、

若在大臣大臣中尊教以正法
・もし大臣に在りては、大臣中の尊として、教うるに正法を以ってし、

若在王子王子中尊示以忠孝
・もし王子に在りては、王子中の尊として、示すに忠孝を以ってし

若在內官內官中尊化政宮女
・もし内官(ないかん、後宮の官)に在りては、内官中の尊として、化(け、教化)して宮女を政(ただ)し

若在庶民庶民中尊令興福力
・もし庶民に在りては、庶民中の尊として、福力(ふくりき、福徳の果報を受くべき善業)を興さしめ、

若在梵天梵天中尊誨以勝慧
・もし梵天に在りては、梵天中の尊として、誨(おし)うるに勝慧を以ってし、

若在護世護世中尊護諸眾生
・もし護世(ごせ、四天王)に在りては、護世中の尊として、諸の衆生を護らしむ。

維摩詰病む

長者維摩詰。以如是等無量方便饒益眾生。其以方便現身有疾
・長者維摩詰、かくの如き等の、無量の方便を以って、衆生を饒益(にょうやく、利益を与う)す。
それ、方便を以って、身に疾(やまい)あることを現ず。

以其疾故。國王大臣長者居士婆羅門等。及諸王子并餘官屬。無數千人皆往問疾
・その疾を以っての故に、国王、大臣、長者、居士、婆羅門等、および諸の王子、ならびに余の官属、無数千人、皆往きて疾を問う。

其往者。維摩詰因以身疾廣為說法
・その往く者には、維摩詰、ちなみに身の疾を以って、為に法を説く。

諸仁者。是身無常無強無力無堅。速朽之法不可信也。為苦為惱眾病所集
・諸仁者(しょにんじゃ、ミナサン)、この身は無常なり。強くなく、力なく、堅くなく、速やかに朽(く)つるの法(ほう、モノ)にして、信ずべからず。苦(く)たり、悩(のう)たり、衆病の集まる所なり。

諸仁者。如此身明智者所不怙
・諸仁者、この身の如きは、明智の者の怙(たの、頼る)まざる所なり。

是身如聚沫不可撮摩
・この身は、聚沫(じゅまつ、飛沫)の如く、撮摩(さつま、触れる)すべからず。

是身如泡不得久立
・この身は、泡の如く、久しく立つことを得ず。

是身如炎從渴愛生
・この身は、炎(かげろう)の如く、渇愛(かつあい、渇くように欲する)より生ず。

是身如芭蕉中無有堅
・この身は、芭蕉(の幹)の如く、中は堅なるもの有ること無し。

是身如幻從顛倒起
・この身は、幻の如く、顛倒(てんどう、妄想)より起こる。

是身如夢為虛妄見
・この身は、夢の如く、虚妄の見(けん、所見)と為す。

是身如影從業緣現
・この身は、影の如く、業縁(ごうえん、過去の行為と因縁)より現る。

是身如響屬諸因緣
・この身は、響(ひびき、コダマ)の如く、諸の因縁に属す。

是身如浮雲須臾變滅
・この身は、浮雲の如く、須臾(しゅゆ、短時間)に変滅す。

是身如電念念不住
・この身は、電(イナズマ)の如く、念念(瞬間瞬間)にも住(とど)まらず。

是身無主為如地
・この身は、無主にして、地の如しと為す。(土地には常主なし)

是身無我為如火
・この身は、無我にして、火の如しと為す。(やがて消える)

是身無壽為如風
・この身は、無寿にして、風の如しと為す。(働きはあれど本体なし)

是身無人為如水
・この身は、無人にして、水の如しと為す。(六道を経巡る)

是身不實四大為家
・この身は、実にあらずして、四大(しだい、地水火風)を家と為す。

是身為空離我我所
・この身は、空にして、我(が、ワレ)と我所(がしょ、ワガモノ)を離る。

是身無知如草木瓦礫
・この身は、無知にして、草木瓦礫の如し。

是身無作風力所轉
・この身は、無作(むさ、無作主)にして、風の力に転ぜらる。

是身不淨穢惡充滿
・この身は、不浄たり、穢悪(えあく、汚きもの)充満す。

是身為虛偽。雖假以澡浴衣食必歸磨滅
・この身は、虚偽たり。仮に、澡浴衣食を以ってすといえども、必ず磨滅に帰す。

是身為災百一病惱
・この身は、災たり、百一病の悩みあり。

是身如丘井為老所逼
・この身は、丘井(きゅうせい、廃墟の井戸)の如く、老いの為に逼(せま)らる。

是身無定為要當死
・この身は、定(じょう、定まれる寿命)なく、要(かなら)ず、まさに死すべしと為す。

是身如毒蛇如怨賊如空聚。陰界諸入所共合成
・この身は、毒蛇の如く、怨賊の如く、空聚(くうじゅ、空き部落)の如く、陰界諸入(おんかいしょにゅう、身心と環境)の共に合成する所なり。

諸仁者。此可患厭當樂佛身
・諸仁者、これ患厭(げんえん)すべし。まさに仏身を楽(ねが)うべし。

所以者何。佛身者即法身也
・所以(ゆえ)は何に。仏身とは、すなわち法身(ほっしん、真如)なり。

從無量功德智慧生
・無量の功徳(くどく、衆生を済う力)の智慧より生ず。

從戒定慧解脫解脫知見生。從慈悲喜捨生。從布施持戒忍辱柔和勤行精進禪定解脫三昧多聞智慧諸波羅蜜生。從方便生。從六通生。從三明生。從三十七道品生。從止觀生。從十力四無所畏十八不共法生
・戒、定、慧、解脱、解脱知見(げだつちけん、已に解脱せることを知る)より生ず。布施、持戒、忍辱(にんにく、耐え忍ぶ)、柔和、勤行、精進、禅定(ぜんじょう、心を平静に保つ)、解脱(げだつ、煩悩の繫縛から脱する)、三昧(さんまい、一心に行う)、多聞、智慧の諸の波羅蜜(はらみつ、仏となる為の道)より生ず。方便より生ず。六通(ろくつう、不思議な能力)より生ず。三明(さんみょう、不思議な能力)より生ず。三十七道品(さんじゅうしちどうほん、仏となる為の修行)より生ず。止(し、禅定)観(かん、智慧)より生ず。十力(じゅうりき、仏の智慧)、四無所畏(しむしょい、仏、菩薩のもつ自信)、十八不共法(じゅうはちふぐうほう、仏、菩薩のみがもつ功徳)より生ず。

從斷一切不善法集一切善法生
・一切の不善法(ふぜんほう、他を害する)を断じ、一切の善法(ぜんぽう、他の為になる)を集むるより生ず。

從真實生
・真実より生ず。

從不放逸生
・不放逸より生ず。(持戒の生活)

從如是無量清淨法生如來身
・かくの如きの無量の清浄の法より、如来の身は生ずるなり。

諸仁者。欲得佛身斷一切眾生病者。當發阿耨多羅三藐三菩提心
・諸仁者、仏身を得て一切の衆生の病を断ぜんと欲する者は、まさに阿耨多羅三藐三菩提心を発すべし。

如是長者維摩詰。為諸問疾者如應說法。令無數千人皆發阿耨多羅三藐三菩提心
・かくの如く長者維摩詰、諸の疾を問う者の為に、応ずるが如く(時、場所、人に適応した)法を説き、無数千人をして、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発さしむ

引用文献


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 面白い 超訳【維摩経】

初期大乗仏教典の傑作であり、かの聖徳太子も注釈本を書き下ろしたという「維摩経」の超訳チャレンジ。
仏教典=「お経」というと、法事の時などに坊さんがなにやらムニャムニャ唱えている呪文みたいなものだというイメージが強いですが、羅列された漢字の文字列を「中国語」の文章として読もうとしてみると、その内容の面白さに、ひとかたならず驚かされます。
中でも「維摩経(ゆいまぎょう)」は、戯曲的な色彩が強くて面白いという噂だったので読んでみたわけなのですが、イキイキとした人物描写が実に素敵で、凡百の小説やドラマなどよりもよっぽどか楽しく読むことができました。

「宗教書」などと考えず、純粋に「読み物」として楽しんでいただければ、これ幸い。

【維摩経】目次
「維摩詰所説経」より

◆維摩居士、仮病を使う (方便品)

◆難色を示す仏弟子たち (弟子品)

◆ しり込みする菩薩ども (菩薩品)

◆ 文殊がゆく! (文殊師利問疾品)

◆ ミラクルパワー! (不思議品)

◆一般ピープルってどうよ? (観衆生品)

◆ ザ・ウェイ・オブ・ブッダ (仏道品)

◆相対化を超えてゆけ! (不二法門品)

◆極上のランチ (香積仏品)

◆菩薩でGO! (菩薩行品)

◆極楽を見たか? (見阿閦如来品)

◆「法」を守れ!(法供養品)

◆大団円(嘱累品)

(附録)
◆ザ・ワールド・オブ・パラダイス(仏国品)


引用文献  .



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梵漢和対照・現代語訳 維摩経 単行本 – 2011/8/27 植木 雅俊 (翻訳) 単行本: 680ページ 出版社: 岩波書店 (2011/8/27)
維摩経は、人間生活におけるとらわれを捨て、世俗の生活(在家)のなかに仏教の理想を実現することの意味を説いた初期大乗仏典の代表的傑作である。本書は、「空」という大乗仏教思想の核心をドラマ仕立てで説く根本経典の、正確かつ平易な現代語訳。前世紀末に見つかった20世紀仏教学史上最大の発見と称されるサンスクリット原典に依拠し、梵文と漢訳(書下し)を併記。詳細な注解を付す決定版。
本書は、サンスクリット・テキスト影印版(大正大学綜合佛教研究所刊)を底本とする現代日本語訳と、綿密な校訂によるローマナイズしたサンスクリット原典テキスト、鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』(漢文書き下しテキスト)を併記対照させつつ、さらに詳細な注解を施したものである。原典テキストに準拠した曖昧さを残さない正確で読みやすい訳業は、全体の半分近くを占める訳出の根拠となる綿密な注解とともに、仏典翻訳史に新たな頁を刻む画期的な達成である。

至れり尽くせりの本(事例)
『維摩経』のサンスクリット原典は既に失われているとされてきた。ところが、その写本が何と1999年に完本として発見された。本書は、その写本の影印版(2003年)を綿密に校訂し、詳細な注釈(全680頁の約半分を占める)を付して現代語訳した上で、「サンスクリット原文」、「鳩摩羅什訳」、「著者の現代語訳」を見開きで対照させるという、読者にとって極めて便利な構成で作られている。
 著者は、お茶の水女子大学に「仏教におけるジェンダー平等思想」というテーマの論文を提出し、2002年に同大で男性として初の人文科学博士の学位を取得した。そして、『梵漢和対照・現代語訳 法華経』上・下(岩波書店)で毎日出版文化賞に選ばれた(2008年)。まさに、サンスクリット語と仏教学の泰斗である。大学や研究機関に身を置くことはないが、大学の研究者たちの業績を遥かに凌駕する研究成果を次々に発表している。まさに、在俗でありながら十大弟子をも圧倒し、性差をも超えていた維摩居士を地で行く人というべきである。
 権威主義的な小乗仏教の女性軽視にとらわれた智慧第一の舎利弗も、天女にからかわれ、手玉にとられる。維摩詰の十大弟子に対する弾呵も手厳しいが、本書の注釈においては、過去の研究成果の矛盾点に対する著者の指弾も手厳しい。例えば、43〜46頁の長きにわたる注釈で、著者は、長尾雅人博士の一音(いっとん)説法についての無理なこじつけを槍玉にあげる。長尾氏が、「釈尊は方言で語られたが、受け取る側はそれぞれの方言で受け止めた」と解釈し、その例として「『おしん』というテレビ・ドラマが佐賀弁で話されていても全国で理解されたのと同じだ」と述べていることについて、著者は「それは全国放送なので手加減しているから理解されたのであり、鹿児島弁であったらどうなのだ」と批判する。そして、長尾氏がどうして方言にこだわられるのか、そのネタ本まで暴露している。本書の、注釈ではこのような批判が網羅されている。これまでの研究は何だったのかという思いが募る。
 古来、初めてお経を読む人に、『維摩経』はうってつけとされてきた。それには相応の理由がある。プラトンの著作が哲学である以前にドラマ(ソクラテスを主人公とする対話)として面白いのと同様、仏教経典はドラマ(主人公は世尊)としてまず面白い。別けても『維摩経』の仕掛けは無類である。経典文学の最高峰である『法華経』とならぶものである。
 インド人の想像力にはほとほと頭がさがる。一文学書として『維摩経』を捉えた時、あくまで個人的な感想であるが、その読後感はルキアノス『本当の話』に一番近い感じがした。『アラビアンナイト』や『黄金のろば』も奇想天外だが、スピードが伴わない。『維摩経』は、これらの世界文学の最高峰とならべても遜色がないのである。それが、曖昧さを残さない正確な訳文で現代に蘇った。  文学的魅力は読めば終わるが、思想を汲み取る作業は別である。ありがたいことに著者は、インド仏教史の概略、戯曲『維摩経』のあらすじ、在家の地位の歴史的変遷、積極的な利他行の原動力としての「空」――など、『維摩経』理解に欠かせない思想背景を巻末の「解説」で詳細に論じてくれている。先に「はしがき」「解説」「あとがき」に目を通してから、現代語訳の本文を読むことをお勧めしたい。
 仏教用語辞典としても使える索引の充実ぶり、梵漢和を対照させたレイアウトは、印刷業者泣かせの作業であり、サンスクリット原文の校正を考えても、5500円の定価は信じられない安さである。その“安さ”が不思議でならなかったが、「あとがき」を読んで納得した。著者自身が、コンピュータのDTP技術を駆使して完全原稿(版下)を作成していたのだ。出版社まかせでは価格が跳ね上がるだけではなく、誤植が跡を絶たない(出版社にいた経験からこのことは請け合える)。その意味でもテキストの信頼性は他を圧している。至れり尽くせりとは、この本のためにあるような言葉だ。


梵文和訳 維摩経 単行本 – 2011/1/1 高橋 尚夫 (翻訳) 西野 翠 (翻訳)単行本: 333ページ 出版社: 春秋社 (2011/1/1)
真の菩薩の生き方を鋭く初期大乗経典の『維摩経』。その梵文テキストをチベット訳や漢訳なども参照しながら、正確かつ平易な言葉で翻訳。巻末には、用語解説や梵・蔵・漢の相違点などを示した詳細な訳注を付す。


『維摩経』 2017年6月 (100分 de 名著) ムック 釈 徹宗 (その他) – 2017/5/25 釈 徹宗 (その他)
あらゆる枠組みを超えよ!
かの聖徳太子が日本に紹介した仏典『維摩経』。病気になった在家仏教信者・維摩と、彼を見舞った文殊菩薩との対話を通して、「縁起」や「空」など大乗仏教の鍵となる概念をめぐる考察が、まるで現代劇のように展開される。この『維摩経』を現代的に読み解く面白さを、宗教学者で僧侶の釈徹宗氏が解説する。


維摩経講話 (講談社学術文庫) 文庫 – 1990/3/5 鎌田 茂雄 (著)
『維摩経』は、大乗仏教の根本原理、すなわち煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)を最もあざやかにとらえているといわれる。迷いと悟り、理想と現実、善と悪など、全く対立するものを不二(ふに)と見なし、その不二の法門に入れば、一切の対立を超えた無対立の世界、何ものにも束縛されない自由な境地に入る。在家の信者の維摩居士が主役となって、菩薩や声聞(しょうもん)を相手に活殺自在に説法するところが維摩経の不思議な魅力といえよう。


大乗仏典〈7〉維摩経・首楞厳三昧経 (中公文庫) 文庫 – 2002/8/25 長尾 雅人 (翻訳), 丹治 昭義 (翻訳)
大金持ちの俗人維摩居士の機知とアイロニーに満ちた教えによって、空の思想を展開する一大ドラマ維摩経。人間の求道の過程において「英雄的な行進の三昧」こそ、あらゆる活動の源泉力であると力説する首楞厳三昧経。



・超訳【維摩経】・超訳【無門関】・超訳【金剛経】・超訳【夢中問答(上)】

超訳【維摩経】 超訳文庫設立の契機ともなった記念碑的作品。 初期大乗経典の傑作にして、ドタバタコントの元祖みたいな一大哲学サイキック活劇です。 気楽に読むだけで、キミも「ミラクルパワー」がゲットできる!?

超訳【無門関】 「仏」に逢ったら即、ぶっ殺せ! 「師匠」に逢ったら、やっぱりぶっ殺せ! 「親」に逢ったら? もちろんぶっ殺せ! そしてオマエは天下無敵となるのだ!! ・・・というもの凄い剣幕で語られる、48のシュールなナゾナゾたち。 快僧無門慧開の真意は何処!?

超訳【金剛経】 我らの心に平安をもたらすもの、それは「完全円満なる智慧」。 ・・・という壮大なテーマで繰り広げられる、ブッダとその弟子スブーティ(須菩提)のボケとツッコミによる究極哲学ふたり漫才! 超メジャータイトル「般若心経」と、ショートエピソード「ミラクルフラッシュ・ボーイの物語(不思議光菩薩所説経)」も同時収録! 全編とも、漢訳原典つきです!

超訳【夢中問答】(上) 「夢」とは何か? そしてその中で交わされる問答とはいったい? 足利直義の切実な問いを受け、夢窓国師が開く「真実の法門」とは!? 室町時代のディアロゴスの軌跡が、七百年後の今に甦る!
超訳【維摩経】


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維摩経

百科事典

維摩経』 (ゆいまきょう、: Vimalakīrti-nirdeśa Sūtra ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ[1])は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。

サンスクリット原典[2]と、チベット語訳、3種の漢訳が残存する。漢訳は7種あったと伝わるが、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳である。

日本でも、仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子三経義疏の一つ『維摩経義疏』を始め、今日まで多数の注釈書が著されている。

概要

維摩経は初期大乗仏典で、全編戯曲的な構成の展開で旧来の仏教の固定性を批判し在家者の立場から大乗仏教の軸たる「空思想」を高揚する。

内容は中インド・ヴァイシャーリーの長者ヴィマラキールティ(維摩詰、維摩、浄名)にまつわる物語である。

維摩が病気[3]になったので、釈迦舎利弗目連迦葉などの弟子達や、弥勒菩薩などの菩薩にも見舞いを命じた。しかし、みな以前に維摩にやりこめられているため、誰も理由を述べて行こうとしない。そこで、文殊菩薩が見舞いに行き、維摩と対等に問答を行い、最後に維摩は究極の境地を沈黙によって示した。

維摩経は明らかに般若経典群の流れを引いているが、大きく違う点もある。

  • 一般に般若経典は呪術的な面が強く、経自体を受持し読誦することの功徳を説くが、維摩経ではそういう面が希薄である。
  • 般若経典では一般に「」思想が繰り返し説かれるが、維摩経では「空」のような観念的なものではなく現実的な人生の機微から入って道を窮めることを軸としている。

不二法門

維摩経の内容として特徴的なのは、不二法門(ふにほうもん)といわれるものである。不二法門とは互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いている。例を挙げると、不善、罪と福、有漏(うろ)と無漏(むろ)、世間出世間無我生死(しょうじ)と涅槃煩悩菩提などは、みな相反する概念であるが、それらはもともと二つに分かれたものではなく、一つのものであるという。

たとえば、生死と涅槃を分けたとしても、もし生死の本性を見れば、そこに迷いも束縛も悟りもなく、生じることもなければ滅することもない。したがってこれを不二の法門に入るという。

これは、維摩が同席していた菩薩たちにどうすれば不二法門に入る事が出来るのか説明を促し、これらを菩薩たちが一つずつ不二の法門に入る事を説明すると、文殊菩薩が「すべてのことについて、言葉もなく、説明もなく、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答を離れ超えている。これを不二法門に入るとなす」といい、我々は自分の見解を説明したので、今度は維摩の見解を説くように促したが、維摩は黙然として語らなかった。文殊はこれを見て「なるほど文字も言葉もない、これぞ真に不二法門に入る」と讃嘆した。

この場面は「維摩の一黙、雷の如し」として有名で、『碧巌録』の第84則「維摩不二」の禅の公案にまでなっている。

原典・主な訳注

主な解説講話

注・出典

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  1. ^ 「ニルデーシャ」(nirdeśa)とは、「演説説教」のこと。
  2. ^ それ以前は逸失したものと思われていたが、1999年に大正大学学術調査隊によって、チベット・ラサポタラ宮ダライ・ラマの書斎で発見された。
  3. ^ この病気は、風邪や腹痛、伝染病などではない。維摩の言葉、「衆生が病むがゆえに、我もまた病む」は大乗仏教の慣用句となっている。
  4. ^ 大正大学教授
  5. ^ 大正大学総合仏教研究所研究員

関連項目



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